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普通に落ち着くということ
 
友人の結婚式に参加してきた。
葬式は5回くらい経験してるのに、結婚式は初めてだったのよね。


式場は市内だったから土地勘の面で不安はなかったけど、時間的にどれくらいに到着すれば大丈夫なのかイマイチ把握できなくて、そっちのほうで異常に緊張していた。一応送迎バスの時間は指定されていたけど、実際に到着したらすでにほとんどの人が準備完了の上に式場での歌も始まっていて、同じバスに乗ってきた女性と玄関でちょっと待っていたり。そしたら係の人が気がついて中に入れてくれた。

私は友人枠だから挙式場への入場は最後だったけど、前に詰めて座ってくれということで親族席に近いところまで行ってしまって「こ…ここに座っていていいのか!?」とまた新たな緊張に襲われる。成り行き任せだから仕方ないんだけどね。なにせ結婚式は初めてだから。

奥さんは後姿の写真しか見たことなかったからウェディングドレス姿はきれいだったねえ。友人は「そんなきれいな人ではないですよ」と謙遜していたけど、なんというか、キレイ系というよりはかわいい系なのだろうか。どちらにしろ美しい人だった。
そしてね、ベールアップした後に友人の髪に付いた花びらを奥さんがさり気なく取ったところで私の中の何かが爆発したね。光となって飛び散ったよ…。

挙式も無事に終わり、歓談の時間。友人の関係者は全体的に大学以降の人たちが多いようだったから、その人たちが終わってから私もあいさつに行こうと思っていたら、送迎バスの時間になってしまい会釈するだけで退出…。次の披露宴もこんな感じでタイミングを逃して会釈に終始してしまった。


挙式の感想としては、変な話、葬式と同じ感覚があった。どちらも「神聖である」「より良い未来を信じて送り出す」という点で合致しているし。それに、あくまで第3者としての立場からすると感情の起伏は意外と少なく、それでいてその起伏のベクトルはやはり葬式で感じられたものと同じように思えた。
原因が何だったのか考えると、葬式も結婚式も儀式そのものではなく当事者への想い入れによって感情が動かされるので、その点では今回の結婚式は奥さんのことを名前さえ知らなかったから感動より「へぇー」という関心のほうが勝ってしまったのかもしれない。
もちろん葬式は少なく、結婚式が多いほうが良いに決まってるけどね。



披露宴のホテルにはけっこう早く到着したけど、座席表で10年以上も連絡取ってない中学時代の同級生が全員同じテーブルに配置されていると知り、はたしてどう反応していいものかとまたしても緊張に襲われる。中途半端に確認し合うくらいなら無関心であるほうがやりやすいと思ったけど、実際には二言くらい話してお互いに距離を置くという感じだった。10年以上も連絡取ってなかったから、お互いに改めて入り込む必要性も見出さなかったのだろう。
あと「すげー若くない?」と連呼されたけど、私は若いのではなく経験値不足によって年齢の割に大人になりきれていない幼さがあるだけだよ。「若い」と「幼い」は違うのだ。

座席は出入口に近かった反面、新郎新婦の席は真後ろだから180度振返らないといけないし、新郎側は柱、新婦側はカメラマンが遮っていて何も見えなかった。楽しげな雰囲気は伝わってきたので十分だけど。
しかしこの時すでに私は度重なる緊張と疲労によって胃に違和感があり、けっこう食事が辛かったり。というものコース料理だからこちらが食べ終わったかどうかに関係無く時間で提供されるから、胃に配慮しつつ時間をかけて食べるということが出来なかったのよね。美味しかっただけにちょっと残念。

そうこうしているうちに新郎新婦がウェディングケーキを盛りつけてくれるサービスが始まり、けっこう混雑していたので私はちょっと待ったのだけど、直前に友人はお色直しのために控室へ。またしても会釈するだけに終わり、配膳係の女性からケーキを渡されてしまった。この絶妙なタイミングの逃し方ね。

最後の新郎新婦の退場で友人の胴上げをしようと私のテーブルの人々が見切り発車で飛び出し、私も巻き込まれてしまった。みんなは友人を胴上げしたけど、その瞬間に私は奥さんの面食らった顔を目撃してしまい、「しまった!でも発案者は俺じゃないから大丈夫だ!」という自己保身が頭を過ぎりつつもやったもの勝ちの精神で乗り切った…はず。

披露宴の終わりに新郎新婦からお土産が手渡される場面でようやく友人と1対1の状況になるも、後ろから次々と人が出てくるのでまたしても会釈で終わり…にしたくなかったので無理矢理に手を出してがっちり握手した。勝利。
友人のご両親にもようやくあいさつできたけど、覚えていてくれて良かった。4ヶ月前に会ったんだから当然と言えば当然だけど。



私が初めての結婚式出席なら、友人は初めての新郎だし、ともかく無事に終わって良かった。

奥さんに関しては当日に名前を知るくらいの状態で会話をしたわけでもないので「会った」というより「見た」と言ったほうが正しいかな。でも、スピーチなどで周囲の人たちによって人となりが紹介されていくことで、彼女と友人は出会うべくして出会えたのだと思えたし、私もまた夫である友人を通して彼女を知ることができて良かった。
友人も私からすれば聖人のような人だけど、出会ってから数ヶ月で結婚を決めたことも奥さんを見ていればなんとなく分かる。素敵な女性と結婚できたことを羨ましいと思う気持ちさえもとうに超えて、2人が出会い結婚できたことを友人として誇りに思える。奥さんもまた、それほど天使のような人だった。

スピーチなどで紹介された奥さんに関するエピソードとして一番衝撃的だったのが、相手に対する感謝として「楽しかったです」や「嬉しかったです」ではなく「幸せでした」と返すことを心がけているということ。
究極的に考えればこの世には幸か不幸かしか存在しないわけで、悪いことがすべて不幸とは限らずとも良いことはすべて幸と考える。他者への配慮はもちろん必要だけど、余計な詮索や予想はせずに良いことをあるがままに幸として受け入れる。それが出来る人は幸せになれるのだなと。
考えてみれば私は朝起きた時から「辛いわー」と思うことが多く、すぐに他者や物事の裏側を妄想してそこにあるものを引きずり出して自分への責任にしようとしてしまう。そしてそれを他者への配慮だと思ってしまっている。この辺のことは友人から「コミュニケーションの自己完結」と言われたことがあって、その通りなんだけど、深く考える必要はなく良いものは良いものとして受け入れ、それを「幸せ」という一言だけで完成させてしまうのが、ずっと自分が見失っていたものだったのではないかと感じられた。


以前、ある番組の街角インタビューで「普通に落ち着きたい」と答える女性がいた。その人は友人の奥さんと同じく看護士で年齢も同じくらいだったけど、救急医療のスタッフなので常に死を見続けてきていて、「結婚したから次は子供がほしい。そして『普通に落ち着きたい』」と言っていた。
よく言われる「普通が一番」という表現はいわば平凡が無難という意味でもあり、挑戦や決断といったものも否定する要素も含まれているけれど、ここでの「普通に落ち着きたい」は失ってきたものが多かったからこそ、これ以上失わないようにするということで、ここ数年に渡って自分の中に芽生えている負の感情に対する想いを一言で表すのなら、この「普通に落ち着きたい」になるのではないかと思う。それは今回の結婚式でもよく感じた。
「彼女ほしいなー」とか「結婚したいなー」といった漠然とした恋愛欲求ではなくもっと根源的なもので、人並みな行動で自分の中の負の感情を埋めていくような、人並みな行動を疎かにしたことで失ってしまったもののほうが多かったのではないかと気がついてしまったような気持ち。昔から人見知りということもあるだろうし、逆にオタク気質な部分で他の人には達しえない経験をしたというのもあるだろうけど、その人並みな経験の不足が「若さ」ではなく「幼さ」につながっているのだろう。
かといって「では明日から変わります」と言ったところで何にもならないのは明白。だからこそ、良いことを一つ一つ幸として拾い集めていくことが大事だろうし、それを教えてくれたのが今回の結婚式であり、友人の奥さんだった。他の人の結婚式だったら、きっと人並みな経験が不足していることだけを理解してまた落ち込んでいただろう。高校で友人に出会ってから様々なことを教えられ、その10年後に彼が選んだ女性からまた様々なことを教えられた。一方的であっても、やはりここには運命という表現を使いたい。


友人が私の手を取り、奥さんは友人のもう片方の手を取る。そして人がつながる。
でも、私にはもう片方の手が残されているのだから、そこからつながる人と人の関係がいつか友人の奥さんのもう片方の手につながるように、人を信じていきたい。
 
 
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【2015/03/08 19:37】 | 創作とか想うこととか | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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