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終末の世界で描かれる革命の妥協無き結末 「スノーピアサー」
 


温暖化対策として実施された世界規模での化学薬品の散布が失敗し、人工的な氷河期に突入した至近未来の地球。
人類最後の生存域は全大陸を横断する列車「スノーピアサー」の車内だけとなっていた。しかし、有料車両へ乗車した人々は車内でも富裕層として何不自由無い暮らしを続け、無料で開放された車両へ乗車した人々は否応なしに劣悪な環境での生活を余儀なくされる。
貧困層のスラムと化した最後尾の車両で17年間生活し、そのリーダー格となったカーティスは武力発起によって車両の開放を目指していくが…。


韓国映画界を代表する演出家ポン・ジュノのハリウッドでの監督デビュー作であり、クリス・エヴァンス、ジョン・ハート、エド・ハリスにソン・ガンホを加えたそうそうたる面々が出演しているが、そこで描かれるのは「富裕層からの圧政に不満を募らせた貧困層の革命運動」という極めて社会性の強い内容。さらに、すべての状況設定も列車内に限定されるため、必然的に映像としても物語としても使用可能な手法は限られていく。
それでも、ポン・ジュノは一切の妥協無くこの作品でのテーマとストーリーを完結まで導いた。

展開自体は単純で、ひたすらに先頭車両を目指して突き進んでいくだけ。もちろん、そこには兵士や列車の管理員たちが立ちふさがり、時に激しい戦闘や多大な犠牲者も生み出してしまうが、劇中の人物だけではなく観客もそれを「革命運動」と感じられるのは序盤で徹底した階級社会と富裕層からの圧政が描かれているから。
ティルダ・スウィントン演じるメイソンは列車そのものを狂信的に崇拝し、列車そのものがこの世界の秩序であり、そのために貧困層は貧困層のままでいなければならないと説く。乗車料金の有無で階級が分かれたとはいえ、貧困層への仕打ちはあまりにも酷い。それを総理としての権限を持つメイソンが絶対的に支持し、その維持のためには見せしめの拷問さえ行ってしまう。これで観客の感情移入は十分。あとは貧困層の武力発起を見届け、メイソンがどのようにして殺害されるのか期待するようになる。

中盤からは車両を移動することで暗く汚く殺伐とした世界観が一新され、テリー・ギリアムが創りだしたような富裕層の摩訶不思議な世界が登場。これはスラムと化した後方車両との比較によって成り立っているだけで、実際には目新しいものは無く一般的な日常生活と変わりない状況ではあるものの、やはり狂信的な列車崇拝とそれに伴う洗脳教育が異常性を際立たせている。
ただ問題なのは次々と登場する新たな車両に前後関係が薄いため、観客を驚かせること以外にあまりストーリーに寄与する部分が無いということ。設定上はそれらをつなぐ車両が存在しているだろうけども、映像としては紹介されないために美容室になっている車両の次がプールになっていたりして「わざわざ水着に着替えて複数の車両を移動してるの?」といった疑問が介入してしまうことが多い。寝台車両が登場しないことで生活感がまったく感じられないということも大きいと思う。
終盤で提示されるある価値観のためには地上でなければならない理由が確実にあったけども、閉鎖環境と後退が許されない前進を描くなら、列車内ではなく地下施設で上階を目指す内容でも十分に達成できる可能性もあったと思う。列車内であれだけの世界観を展開できたのだから、そこをもっと突き詰めてほしかった。

また、監督が監督だけに全体の作風は韓国映画に近く、「韓国映画に多くの外国人俳優が出演している」と考えたほうが受け止めやすいかもしれない。特にアクションシーンでのバイオレンスは韓国映画と比べると抑えられてはいるものの、血が飛び散るのは当たり前で、斧や鈍器で相手の頭を潰し、喉を切り裂き、両手足を潰すという「いかにして人は死ぬのか」という描写が大事に扱われ、名前もセリフも無いモブキャラであっても映画内での記号としての死ではなく明確な殺人として目に焼き付けれる。

そして終盤で明かされる主人公の過去、残酷なまでの真相、悲劇的な結末とわずかな希望。
あまりにも悲しい幕切れではあるけども、クリス・エヴァンス演じる主人公カーティスに必要以上のヒロイックな要素を与えないことで、エンタメ系に引きずられることなく革命と犠牲と贖罪を一切の妥協無く正面から描き切った。
それを見届けるだけでも、この映画には価値はあった。
 
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テーマ:映画感想 - ジャンル:映画

【2014/03/03 02:58】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
生き様を倒すのは生き様 「RUSH」
 
久々に観終わった直後に「本当に見て良かった」と思える傑作だった…



主人公となるのは1970年代から80年代にかけて活躍したF1ドライバーのジェームズ・ハントとニキ・ラウダ。
常に「今日が自分の死ぬ日」と考え続け奔放で刹那的な生き方を貫くジェームズと、知的で冷静で冷徹なニキ。まったく正反対の2人だったが、共にマイナーレースから勝ち上がりF1でワールドチャンピオンを争うほどに成長する。
しかし、ニキが中止を提案したレースでジェームズは強行開催を推奨し、その結果ニキは大クラッシュに巻き込まれる。自らを責めながらも走り続けるジェームズ、その姿を見て再びレーサーとして復帰することを決断するニキ。そしてニキは「不死鳥」と呼ばれた大復活を果たす。


この映画で描かれるのはジェームズ・ハントとニキ・ラウダという2人のレーサーのまさに「生き様」。
ストーリー前半では2人がマイナーレースからF1のトップレーサーに至るまでの数年間が無駄なく展開される。マイナーレースで実績を積み上げ、実力を認められることで少しずつ昇りつめるジェームズ。それに対し、ニキは実績こそ無いもののレーサーとしての技術と知能に絶対的な自信を持っており、徹底した科学的分析と計算でマシンだけではなく自身の立場や環境さえも劇的に改変していく。
2人ともが資産家の家系に生まれながら、自由に生きることを許されたジェームズの周りには常に人が溢れ、逆に家族と絶縁してまでレーサーになることを選んだニキは必要以上の他者との交流を拒んだ。チームも出身地も違えば、人間性も真逆で両者の間に友情も愛情も無いけれど、レーサーとしての敬愛が徐々に生まれていく過程が丁寧に描かれている。

後半からは劇中の時間経過速度は抑えられ、ニキの大クラッシュとそこからの復帰、そしてジェームズとニキの関係の変化が焦点になる。
しかし、「大クラッシュとそこからの復帰」はあくまでニキ・ラウダの生き様の一部に過ぎず、それらを描くためにこのストーリーが作られたわけではない。もしそれらを中心とするならば、後にニキの妻となるマルレーヌとの出会いや関係の発展、クラッシュ後のリハビリにより多くの時間を割いて最後は復帰戦とともに結末を迎えたはずだと思う。そこにジェームズは必要無い。
けれど、ストーリーはメロドラマ的展開や夫を支える献身的な妻といった方向に行くことはなく、むしろそれらは排除され、すぐにニキの復活へつながる。ここで観客はニキの決断や思考に疑問を抱くことが無いのは、前半でニキ・ラウダがどれだけレーサーとして誇り高い人物であったかを描けているから。だからこそ、それ以上の説明は必要無く、マシンに乗って走り出すニキを見届けるだけですべてが完成してしまう。

知的で頭の回転が速いニキは言葉で表現することが出来る。しかし、刹那的な生き方の最前線で走り続けるジェームズには決して言葉では語らせず、細かい仕草やクセで心理状態を描き、最後には嘔吐までさせた。そして大クラッシュからニキが復帰した時、ジェームズはそれを語る言葉を見つけられず、ニキもそれを表現する態度や仕草を見つけられない。
それでも彼らは言葉や態度を超えた2人だけの関係を見つけ出す。それが「世界最速」という称号であり、ニキに勝たなければワールドチャンピオンになれないジェームズ、ジェームズを超えなければワールドチャンピオンになれないニキ、2人は何も語らず、何も示さず、ただレース直前に手を上げて互いにあいさつする。それだけしか方法はなくとも、それだけで十分なほどに互いを敬愛していた。
そして流れ始める重厚なメインテーマ曲、自身の体調とレース状況を瞬時に計算し、圧倒的な運転技術と判断力で次々と先行車を抜き去るニキ。これで泣かない理由が無い。

この物語はニキの一人語りで始まり、ニキの一人語りで終わる。そのどちらもがジェームズについてのものであり、ニキに彼を認めさせ、語らせることでドラマは盛りがった。
けれど、そのジェームズの刹那的な価値観と態度に感化され時に感情的になるニキは非常に人間的であり、ニキが語るジェームズを通してニキもまた描かれている。実際の2人の仲は良かったそうだけども、映画ではレーサーとしての敬愛以上のの感情は無く、最後まで友情も愛情も芽生えないまま平行線で終わる。ただそれはどこまでも一直線に伸びるものではなく、一定の距離を保ちながらも二重螺旋のように複雑に関わり合い、やはり同じ軌道を描き続けている。

まさに「生き様を倒すのは生き様」
 

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【2014/03/02 02:16】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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