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デンゼル・ワシントンはホームセンター勤務で静かに暮らしたい 「イコライザー」
 
「96時間」のリーアム・ニーソンをはじめ、60歳近くなってから本格的なアクション映画に出演するベテラン俳優が増えてきたけども、今回のデンゼル・ワシントンもその一人。
しかし、そこで描かれたのは悪党の処刑に秒単位の時間しか必要としない過去最強のオヤジ抹殺者だった。






ホームセンターの従業員として勤務態度は至って真面目で職場での信頼も厚く、警備員を目指す同僚のダイエットにも協力。私生活も常にストップウォッチで時間を計り、徹底した自己管理と規則正しい生活を心がけ、夜は行きつけの深夜営業の喫茶店で紅茶を飲みながら読書。こんな「いい人」を絵に描いたような主人公を演じるのがデンゼル・ワシントン。
ストーリーはその行きつけの喫茶店でロシアからやって来たクロエ・モレッツ演じる娼婦と出会うことから始まる。何気ない世間話から歌手になりたいという彼女の夢を応援するようになるも、娼婦としての運命からは逃れられず、悲劇的な結末を迎えてしまう。それを知った主人公は激しい怒りを見せるわけでも、自宅に隠し持っていた銃を取り出すわけでもない。ただ普段よりもさらに無言・無表情のまま娼婦たちの元締めのもとへ行き、「今から16秒でお前たち全員を殺す」と宣言する。


「レオン」や「アジョシ」のように薄幸な少女を無敵すぎるオヤジが救う話のようでいて実際にはそうでもなく、ヒロインと思われたクロエ・モレッツは割と早い段階で退場。以降はほぼ女性が登場しないまま主人公とロシアンマフィアとの戦いに発展していく。
主人公は血気盛んでもなければ悪を倒すと誓った自警者でもなく、異常な戦闘力を持つただの一般人。ゆえに自分から敵を作ることもないし、可能なら今まで通りに静かに暮らしたいと思っている。しかし、それと同時に「困っている人は助けなければ」という善意からの正義感が非常に強く、ことあるごとに悪党をぶちのめして自分とその周囲にいる人々(主に職場の同僚)の平和を守っていき、ロシアンマフィアとの戦いもその延長だったりする。それくらいに心身ともに余裕があり、アクションでの無敵具合にも反映されている。

予告では「19秒で~」と強調しているけど、劇中ではそんなことはなく単に最初の戦闘時間がそうだったというだけ。でも、周囲の状況から戦闘時間を逆算するということが異常なまでの戦闘力を持つことの象徴でもあり、むしろ戦闘開始前にすでに主人公の頭の中では誰をどの武器で処刑するかシミュレーションされているので、秒単位の時間しか必要としないアクションが展開される。
アクションの内容はとてもシンプル。銃やナイフなど殺傷力の高いアイテムは使わず、手近にある日用品の中から一番硬いものでぶん殴り、一番鋭利なもので突き刺す。ワインのコルク抜きやテーブルにあったフォーク、有刺鉄線にガラス片、最後は電子レンジ爆弾まで駆使して戦う。しかも戦闘前には普段以上に無言・無表情のまま相手を見つめるだけで何も言わない、まさに処刑人であり抹殺者。

「96時間」でのリーアム・ニーソンは誘拐された娘を追跡しているから超焦っているとはいえ、基本的に怒鳴りまくり、敵への尋問も殴る・蹴る・撃つ・銃を突きつけて脅迫ととにかく大暴れしていたけど、今回のデンゼル・ワシントンは「こいつは社会にとって不要な悪党だ。殺そう」と判断した瞬間に無言・無表情となって5~10秒後にはすでに相手は死んでいる。尋問の必要性が無いとはいえ、相手は死に様すら印象に残されることなく退場させられる。当然、断末魔や命乞いも無く、お馴染みの「主人公と対峙した悪役の自己正当化のセリフ」さえ言わないまま一瞬で殺される。
前半の戦闘ではおそらく主人公が極限まで集中力を高めることで時間の経過が遅くなり、敵の配置、敵の武器の照準、武器として利用できそうな日用品を確認する演出があるけど、中盤からはその演出が無くなる代わりにあっという間に敵を蹴散らしていき、終盤にはついに「敵が登場する前にすでに死んでいる」というアクション映画の見せ場である主人公が悪党を抹殺するシーンを全カットという異常事態。もはや歩くだけで人が死ぬ人間凶器。
また、主人公が悪を抹殺するために登場するシーンでは毎回のように重低音のテーマ曲が流れ、映像はスロー。その中を無言・無表情のデンゼル・ワシントンがゆっくり歩いて行くという、真似したくなるカッコよさ。その真価が発揮される終盤の石油タンカーの場面は今年の映画でも屈指の名場面。


クロエ・モレッツをヒロイン格に配置しながらも特に見せ場が用意されてなかったのは残念だけど、「娼婦を辞めようとして監禁されるも、デンゼル・ワシントンが怒りの奪還」というありがちな展開にしなかったのは、この作品にとっては良かったのかな。
主人公が自分から悪との戦いに飛び込まないがために被害者が出てからでしか動けないことに対する理由付けとそれを解除するロジックも、主人公の過去が垣間見られる部分と同時に描かれるから分かりやすいし。だからこそ主人公が勤務するホームセンターで行われる最後の戦いは、これまでより華麗で凶悪になっている。

「目で殺す」という表現があるけども、主人公に見つめられた悪党は死が確定するというよりも「死んだ状態の10秒前だからまだ生きている」くらいの扱いなので、デンゼル・ワシントンは「超強い人間」を超えて「無敵という概念を実体化した存在」になってしまった。
 
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【2014/10/28 01:28】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
偽りの英雄と呼ばれたけど筋肉があったから特に問題はなかったという昔話 「ヘラクレス」
 
昨今のアメコミ映画ブームと、「ロード・オブ・ザ・リング」や「ハリーポッター」からのファンタジー映画の素養を掛けあわせたものが、最近多い神話や伝承の英雄譚映画(今年だけでも「ポンペイ」「ノア」「ドラキュラZERO」など)ではないかとも思ったり。
しかし、この「ヘラクレス」はドウェイン・ジョンソン主演という人選の時点ですでに勝利していたんだ。






おそらく予告映像では意図的にミスリードしているんだろうけども、「ヘラクレスが英雄としての力を疑われ、様々な試練を乗り越えることで本物の英雄であることを証明する」ではなく、実際には「英雄を自称していた賞金稼ぎとその仲間たちが国を救うことになり、結果的に英雄となってしまった」というもの。
なので、「ヘラクレスはゼウスの血を引く半神と言われているけど、実際にはただの人間で、しかし曇り無き善意と強靭な肉体で英雄となった。という内容が伝説の真相だよ」という扱いの映画。


ストーリーはヘラクレスが自身の(真偽不明な)英雄伝説をきっかけとして一国の危機を救うために傭兵として雇われるというシンプルなもの。
軍隊を率いたヘラクレス一行が移動する度に目の前に敵の大軍団が現れるも、頭部への激しい殴打によって蹴散らしていく。ヘラクレスの武器はハンマーのようなよく分からない太っとい鉄の棒。それをドウェイン・ジョンソンがぶんぶん振り回して手当たり次第に殴打していくという知能指数の低さがかえって快感となり、「人は頭を殴れば死ぬ」という原始的なアクションによって我々の欲求は満たされていく。しかも、この時のヘラクレスは伝説にある獅子の兜をかぶっているので「ライオンの顔を頭に乗せたドウェイン・ジョンソンが鉄の棒を振り回して人を撲殺する」という状態で、それを失笑せずに強大な戦士として納得できるのはやはり筋肉超人であるドウェイン・ジョンソンが演じているからなので、他のそれなりに鍛えてます系マッチョ俳優では無理。

また、ヘラクレスはその力量を疑われるところから始まり戦闘を通して相手を納得させていくけども、パンチ一発で人が5mくらい吹っ飛び、キック一発で馬車が弾き飛ぶんだから、もう半神とか関係無く最初から異次元レベル。それを目の前で見てもあまり信用されない展開は映画として歴史考証よりも重要な問題。筋肉考証がなってない。


ヘラクレス役のドウェイン・ジョンソンは筋肉の王国からやってきた筋肉が意思を持って歩き出した筋肉の大王様といえるくらいの筋肉超人なので、こういった腰布一枚の古代の英雄を演じるにあたっての視覚的説得力は抜群。さらには俳優としても現在のアクション映画の最前線でバリバリに活躍している人だから、もはや「ドウェイン・ジョンソンの躍動する筋肉が人を殴るのを見よ!」というくらいに潔く筋肉と筋肉、そして筋肉しか登場しない。

ヘラクレスには数名の仲間がいて常に全員で渡り歩いてきたけども、ヘラクレス役のドウェイン・ジョンソンが良くも悪くもドウェイン・ジョンソンでしかないので、劇中での肉体的存在感以外の部分はその仲間が請け負っている感じ。それぞれキャラも戦術も活躍具合も分けられているので、「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」でのウォリアーズ・スリーよりずっと活躍してるし印象にも残る。
悪役も多数登場するけども、結局はそれらが退場する場面ではドウェイン・ジョンソンの躍動する筋肉が画面いっぱいに映し出されるので、結局は筋肉がすべて上書きしていく。


上映時間も100分と短く、説教めいた展開もないので、ただひたすらに敵を殴打するヒーロー映画として気軽に見られるという意味では最適の映画。
主人公と仲間たちの関係や展開も少年漫画のようでオチが読めてしまうけど、盛り上げるべき場面はしっかりと話も筋肉も盛り上がるので、日曜洋画劇場での放送だと思って見に行くと分かりやすいかも?
ファンタジー映画としての期待は捨てて、筋肉映画としてドウェイン・ジョンソンの応援に行こう。
 

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【2014/10/27 18:56】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
置き去りにされた少年の怒りが銃と化す 「泣く男」
 

今年の自分の映画ランキングでは確実にベスト5には入るであろうと期待した韓国映画「泣く男」を見てきた。
予告映像の時点で私のやってほしいことや、やりたかったことが存分に取り入れられていることは分かっていたし、実際の内容も映画として面白いとかを通り越えて殿堂入り級だった。





ただ、イ・ジョンボム監督作としては前作に「アジョシ」があるから、それと同じものを期待していると賛否が分かれるとも思う。
おそらく一番の違いは、「アジョシ」は悪の組織に誘拐された少女を救うために隣に住むおじさんが究極の善意で立ち向かう普遍的な感情を扱っていたのに対し、「泣く男」は観客の感情移入を拒むように終始主人公の感情を描くことなく展開されるので、いわば主人公の生き様を見届けることを要求されること。
「泣く男」も「アジョシ」と同じ比較的単純な善悪の闘争のように見えて、実のところ悪が悪のまま悪と戦うという構造になっている分、そこで好みが分かれてしまうのではないかと。


「泣く男」の主人公はマフィアからの暗殺指令の最中に成り行きで無抵抗の少女を殺害。様々な事情が入り込んでその少女の母親も暗殺するように指令を受ける。これによって主人公が少女の母親に近づく理由は出来上がるけども、そこでの二人は「少女を殺した男」と「娘を殺された母親」、「母親に捨てられた息子」と「娘を愛した母親」という関係のみで、二人が交わるのは男女の愛情ではなく”少女の死”だけという距離感。
主人公が見せる感情は「怒り」のみ。それも少女の母親に対するもの。少女の死を受け入れず、自らも死を選ぼうとする母親に主人公は自分の母親を重ねる。行き詰まりの世界に取り残された母親は自ら命を断った。母に愛されたかった主人公はそれを「自分を置き去りにして一人だけ逃げ出した」と考え、少女の母親にも生きることを求める。もしかするとそれは自分を置き去りにした母への間接的な復讐だったのかもしれない。行き詰まりの世界で苦しみ続けろと。


チャン・ドンゴン演じる主人公は冷静かつ冷徹でありながら、その怒りは一瞬にして沸点に達する爆発力があり、その爆発力は銃撃戦での火力へと昇華される。予告にもある中盤のアパートでの銃撃戦は凄まじく、映画的な記号としての銃撃戦ではなく一撃必殺の武器として機能するので素晴らしい緊張感。
今年は「キャプテン・アメリカ/ウィンターソルジャー」が驚くべき完成度のアクションを披露して世界的大ヒットとなったけども、それと同等以上のレベルにあると思う。「キャプテン・アメリカ」の場合はキャプテン・アメリカがスーパーソルジャーなので敵は数での勝負に出たし、最大の敵であるウィンターソルジャーもやはりスーパーソルジャーで、そこでの超人バトルが見どころになっていたけど、逆にその超人的なパワーと無敵の盾で無理矢理に状況を打破してしまうこともあった(それが魅力でもあるんだけども)。
「泣く男」の場合は実力や装備が拮抗した殺し屋と殺し屋の戦いであり、当然、腕でも足でも一発命中すれば大ダメージとなって動きが鈍る。その上で次の一手を反撃として確実にやり返す殺し屋たちの死闘。手の内を知り尽くした者同士としてどちらが一手先を読めるか、体のどこにでもいいので一発を当てられるかという素早い攻防がめまぐるしく展開されていて素敵だった。

主人公たちは殺し屋として最初から銃火器を装備しているのでアクションの比重は銃撃戦が大きいものの、「アジョシ」に続く肉弾戦やナイフアクションも健在。「アジョシ」では相手に可能な限り苦痛を与えるために行われていた「腱と動脈を斬って動けないまま失血死させる」というアクションを「泣く男」ではより機械的に、ただ敵を排除するために行い、主人公の冷徹さを象徴させている。
また、殺し屋だからこその”慣れ”を利用した行動もあり、人混みに紛れた敵を一瞬で見分ける方法が面白い。

残酷描写はスプラッター映画ほどではないにしろ、銃撃を受けた手が弾け飛び千切れた指が床に転がるといった場面も多い。一般人である少女の母親が床一面に広がる血の中を素足で歩くことに強い嫌悪感を示すことと相手の返り血を顔面に浴びながらショットガンを連射する主人公との対比も良い。


主人公の最大の敵となる男を演じるのはブライアン・ティー。「ワイルドスピード」では横暴なチンピラ、「ウルヴァリン」では情けない政治家とイマイチ活躍しなかったものの、今回は兄貴分としての愛情を見せながら全力で殺そうとする暗殺者を好演。愛憎入り乱れる過去を提示する役割もある。
「アジョシ」で悪役兄弟の兄を演じたキム・ヒウォンも出演していて、今回も「小物界の大物」と言える小悪党を熱演。
ブライアン・ティーの部下である外国人傭兵は銃を構えているだけで画になる迫力と説得力があり、圧倒的な火力で主人公を追い詰めていく。


問題としては前半1時間近くが主人公の心境の変化を描くためのドラマ部分となっていて、中盤まではオープニング以外にアクションはほとんど無いということ。その点では「アジョシ」は暴力を駆使して敵から情報を得て追跡する展開だったので、緩急が上手だった。
また、ラストシーンが唐突で、その内容がそこに入れられるべきかというとそうでもなく…。しかし、主人公の感情を一切描くことなく展開したことで最後のエレベーターでの作戦による結末が成立したので、それ以前にあの場面を入れてしまうと観客が主人公に感情移入する隙が出来てしまうので難しいところ。


「アジョシ」は悪に誘拐された少女を救うことで自らに対して抱いていた罪の意識から一つの解放を得る男の生き様を描いた映画であり、「泣く男」は自分を決して許されない存在とした上で他者が下そうとする自らが望んだ方法以外での決着を凄まじい暴力で排除していく男の生き様を見届ける映画だった。
【2014/10/21 02:57】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イヤァオ!
 
最近プロレス、特に新日本プロレスに熱中していて、毎週「週刊プロレス」という雑誌が発売されるのが楽しみでしかたがない。

中学~高校の頃にはPRIDEとK-1による格闘技ブームを通過した世代だから、そっち方面に興味はあったんだけども、やはりその頃にはプロレスを鼻で笑うような状態だったんだよね。
(実際、私だけではなく多くの人がそういった見方をしていたこともあって2000年代のプロレス界はかつてない暗黒時代に突入してしまった)

で、何でまた今になってプロレスに熱中しているかというと、転機になったのは7月に実際に大会を見に行ったこと。行ったのは新日本プロレスが毎年夏に行う一大イベント「G1クライマックス」。全国各地へ移動しながら約3週間で10試合近くの総当たりのシングル戦を行う過酷なイベントであり、今年は札幌で開幕戦が開催された。
そして、そこでの経験や体感というのが自分の隙間を埋めてくれるものだと分かった。今までは映画や博物館や美術館、一人旅などもしてみたけどイマイチほしかったものとは違った。それを完璧な形で埋めたのがプロレスだった。

実際に会場で見たプロレスとはどうだったかというと、「観客が試合に参加できる」部分での一体感がすごく好きだった。
リングで試合をするのは選手だけど、観客は他のスポーツとは違った意味でそれに参加する。つまりプロレスは試合としての勝敗だけではなく”観客を盛り上げたほうが勝ち”というもう一つの勝負がある。そのために選手は闘いながら常に観客の声援や反応を確認しそれに合わせた計算で試合を盛り上げていく。
それは単に技の攻防だけではなく、リング外での選手間・チーム間の不和や抗争からの因縁も含まれていて、リングに上る前からすでに試合は始まっている。この試合で戦う選手はなぜ今戦わなければいけないのか、どういった試合展開なら観客は盛り上がるのか、どのタイミングで技を出せばそれが声援に昇華されるのか、肉弾戦と同時進行でとてつもない頭脳戦が展開される。

プロレスにはいわゆるブックというものがあって最初から勝敗が決定しているとも言われているけど、最高潮に盛り上げたところでその結末を迎えなければいけないという意味では、レスラーはギブアップが許されない。どれだけのダメージを受けようとも、相手が繰り出した技はすべて受け止め、そして自分が勝利するためにさらに技を繰り出す。
何だかんだでダメージは無いのではないかとも思うけど、単純に考えても100キロの大男が100キロの大男を頭から投げ飛ばすんだから絶対にある。それでも試合を中断することなく最後まで立ち上がり続ける凄まじい精神力。試合に負けないために、観客を盛り上げるために。
(最近では真壁刀義選手が顔面に蹴りを受けて前歯が根元から折れて歯茎ごと内側に倒れるという大ケガをしたけど、「ここで必殺技を出せば盛り上がる」と考え本当に試合続行した)

それとともに選手たちは必殺技の前に観客に独自の合図をすることも多い。中邑真輔選手は「ボマイェ」という全力疾走からの飛び膝蹴りが必殺技だけど、それを出す前には必ず地面を激しく踏みつけるし、本間朋晃選手は「こけし」という頭突きが必殺技だから額をペチペチ叩く。その合図によって観客は数秒後に発生する見せ場に対して大声援を送るし、逆に相手が防御や回避によってカウンター技を決めればそれも大声援になる。見たことが無い動きをすれば「おお!?」という疑問系の声援が送られ、そこからかっこいい展開になれば熱い声援、面白い展開になれば笑いが送られる。
「技をかけられるまでわざわざ待ってあげている」という冷ややかな見方もできるけど、観客が見たいのはその選手の必殺技であり、逆に言えばその必殺技を出すだけで観客が盛り上がる状況にまで展開させられるかという点で、やはり計算が不可欠になってくる。

総合格闘技やK-1はリアルファイトであり、ただひたすらに「どちらが強いのか」という最強決定戦に特化した部分に魅力があった。でも、プロレスは観客がいなければ成立しないもの。興行面だけではなく、選手の一挙一動に声援という合いの手を入れ、お互いに発信と受信を繰り返すことで試合が組み立てられる。誰も一言も発さずに試合が決まる瞬間を待ち続ける総合格闘技とはまったく違う面白さ、それは実際に数千人のファンと一緒に観戦することでようやく理解できた。


そして私がプロレスに熱中している理由はもう一つ。新日本プロレスが大改革に成功したから。
新日本プロレスはアントニオ猪木氏によって設立され、すでに40年以上の歴史をもつ団体。しかし、最近の新日本プロレスの試合や選手を見ようとした時に過去の歴史を知る必要が無く、「今の新日本プロレス」だけを見れていればいいという状態になっている。
詳しくはその大改革を導いたことで名実ともに団体のリーダーでありトップレスラーとなった棚橋弘至選手の著書「棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか」に書かれているけど、そこで行われたのは「世代交代」。棚橋選手の世代が10年近くをかけてこれまでの歴史に一区切りをつけたことで、所属選手への「アントニオ猪木とその教え子たち」という認識を終わらせ、新たな時代を生み出すことに成功した。

もちろん10年経ったから年功序列で世代交代となったわけではなく、プロレス界が暗黒時代を迎えたことで団体を背負うべきベテラン選手たちが次々と退団し、消去法で若手の棚橋選手がエースとして担ぎ上げられてしまった。ゆえにファンからブーイングを受ける時期もかなり長かったことは有名。
それでも棚橋選手は団体そのものを救うために様々な情報発信を続け、自分のファンを生み出し、そのファンを他の選手のファンに変化させ、最後は団体そのもののファンにさせた。その結果、新規開拓されたファンは棚橋選手をトップとする新世代のファンとなり、力づくでファンから支持される新たな環境を作り出すことに成功した。
だから今から新日本プロレスを見ようとすると、一番歴史を持っている選手が最前線で活躍する棚橋選手の世代なので、とても応援しやすい。
「ほとんど試合はしてないけど一番のベテランとして~」や「引退したけど現場監督として~」といった関係性が無いので(オカダ選手のマネージャーとして外道選手が付いてるけど)、"今の試合に出場している選手の中から好きな人を選べばいい"という分かりやすさが入口としてとても機能していた。

同時に、棚橋選手はまずはプロレスではなく棚橋選手自身を知ってもらい、それから実際にプロレスを見てもらうということを心がけているそう。
それはプロレスへの先入観を回避するためでもあり、自他ともに認める団体のリーダーとなった現在でも自分の立場を「初めてプロレスを見る人のための入口」として、分かりやすいキャラクター、分かりやすいプロレスを徹底。さらに「知っている選手は応援しやすい」と、とにかく情報発信を欠かさず、私もまたそれに引き寄せられたことになる。そう考えると、私が新日本プロレスを楽しめるようになったのは必然だったのかもしれない。


7月にG1クライマックスを見に行った時には一つのイベントとして楽しめた反面、それ以上深く入り込むことはなかった。でも、棚橋選手の本を読んだことで素直に「プロレスってすげえ!」と思えたし、知っている選手は応援しやすいがそのまま適用される流れになった。やはりプロレスは観客をどれだけ盛り上げられるかという頭脳戦でもあるんだな。

札幌では来年もG1クライマックスの開幕戦が行われるけど、それ以外の新日本プロレスの興業は分からない。でも女子プロレスや北海道を拠点にする北斗プロレスなども興業を行うので、それを見に行きたいと思う。

プロレスは、すごい。
【2014/10/13 18:24】 | オタク的日記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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