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今日までそして明日から

年が明けて、きっと送ってくれるだろうと予想していた三人から年賀状が届いた。
ただ、私のほうは「あの人は引越しで住所変わったんじゃなかったかなー」という不安もあったので、届いてから住所を確認して送り返す方式で待機していた。もちろん、1日の午前中には私からも送ったので心配無く。


友人二人と小学校時代の恩師。
友人の一人は第二子が誕生予定で、もう一人は家を建てると書いてあった。恩師は定年を前に早期退職して慈善活動をしているらしい。疎遠になったわけではないけど定期的な連絡はしていないから、年賀状によって一年分のアップデートが一気に行われ、自分自身の昨年をより否定的に省みてしまう。

私の2015年は春に様々な雑音に嫌気がさして、それらから離れることはできたものの、夏頃にはその雑音によって埋め合わせていた心の隙間の存在に耐えられなくなり、そこから生まれる焦燥感と向き合うくらいなら何もしないほうがいいと、ただじっと時間が過ぎるのを待っていた。秋の終わりにどうにかシナリオを書いてコンテストに応募できたことは唯一の救いだった。
焦燥感と向き合うことへの恐怖と、それと向き合わなかったことへの諦観から、励ましよりも慰めを求め、「きっと自分は十年後もこのままなのだろう」という想いを数千倍に膨らませたら人は人を殴りたくなるのだろうという経験をした瞬間もあった。


その中で年末に「クリード チャンプを継ぐ男」の予習として、まだ見たことのなかった「ロッキー ザ・ファイナル」を見た。



「ザ・ファイナル」でのロッキーは妻エイドリアンを亡くし、小さなレストランのオーナーとして客に昔話を繰り返すだけの日常を過ごしていた。しかし、生活の安定はあってもエイドリアンへの喪失感は計り知れず、ボクシングしか知らず、ボクシングしか語らず、ボクシングしか信じなかったがゆえにロッキーは戦うことに救いを求め、心の隙間を埋めようとする。同時に、人生に行き詰まりを感じている周囲の人々へ「生きていれば辛いことはいくらでもある。だが諦めず何度でも立ち上がれ。人生ほど重いパンチはない」と語りかける。自分が信じたものがやるべきことならば、やるべきなのだと。
そしてロッキーは現役の世界王者とのエキシビションマッチに挑む。義兄であり親友のポーリーは「溜め込んできたものをすべて吐きだせ。そして今夜ですべてを燃やし尽くせ」と送り出し、もう肉体が限界を迎え勝機は少なくとも本気で勝利を目指す。その姿に観客は熱狂し、意識朦朧とする中でエイドリアンや師匠ミッキーの姿を見たロッキーもまた、何度でも立ち上がり続ける。やがてフルラウンドを戦いきったロッキーは判定結果が発表される前にリングを降りる。試合の勝敗ではなく、最後まで戦い抜いたことこそが誇るべきことであり、かつてエイドリアンを呼び込んだあの瞬間の代わりに、ロッキーによって救われた人々が今度は倒れこむロッキーを支える。
かつてのロッキーは自分自身のために戦い、我々はその戦いを見届けることでランニングする背中を追った少年たちと同じ世界を見た。けれど、「ザ・ファイナル」でロッキーは初めて“俺たちのために”戦ってくれた。たとえ結末に敗北があったとしてもその敗北はけっして「諦め」などではなく、最後まで戦い抜くことが「立ち向かう」ということなのだと。

わずかな日光と湿気を頼りに石の裏側に生える苔のように、誰の目にもつかずひっそりと生きていきたいと思っていた私は泣いた。
ことあるごとに「諦観」「慰め」という言葉が頭を支配するけれど、私は助かりたかったのだ。助けてほしかったのだ。他人に現状の自分をさらけ出すことへの恐怖、他人に現状の自分を暴かれることへの嫌悪、それらを覆い隠すための「そんな身分にないですから」という自己否定。逃げなければ死んでしまう状況は確実にある。しかし、敗北と諦めを混同し、それらを受けいれないために何もしないことを選択してきた自分にロッキーはとてつもないパンチを打ち込んできた。

お前は今、戦っているか?
お前は最後まで戦ったか?
お前は自分が信じたものを信じているか?

数年前の私なら自分のことは信じられなくとも、自分が信じたものを信じることで何かと戦えていたのだと思う。でも2015年の私は何もせずじっと時間が過ぎていくのを待ち続けたことで、自分が信じたものを信じられなくなり、信じていた映画も、信じていた格闘技も、信じていた正義のヒーローも、信じていた友人も、信じていた恩師も、すべて自分の内側から消し去ってしまい忘れてしまったのだと思う。
おそらく私を支配する焦燥感の正体は二つある。一つは現状に対する不安。もう一つは自分には何も残されていないのではないかという不安。この二つが重なりあった時に私は途方もない喪失感と虚無感を抱いてしまい、他者の記憶に踏み込まないほどひっそりと生活し「死ぬつもりはないけども早く死なないだろうか」という願望と隣り合わせで生きていく自分を想像していた。
けれど、自分には何も残されていないのではないかという不安の原因は、結局のところ自分が信じていなかっただけなのだ。信じられなくなったのではなく、単に信じることを忘れてしまったから自分の記憶から消えてしまっただけなのだ。信ずべきものはすでに私の内側にも外側にも、時間をかけて収集してきた。それらは今でも私を気にかけ、私に信じられるのを待ってくれている。


私の2016年は、かつて自分が信じていたものを、もう一度信じることから始まる。
そして、自分の信じられるものを可能な限り増やしていくことが今年の目標になる。

2016年1月2日。まず何から信じてみようか。
 
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【2016/01/02 13:48】 | 普通の日記 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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