FC2ブログ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
超破壊暴力的ウルトラマンが怪獣を撲殺する!! 「進撃の巨人 前編」
 
実写化が決定した時点ですでに酷評され、公開されてもやっぱり酷評されている実写版「進撃の巨人」。
しかし一部からは賞賛の声もあり、実際に自分で見てみなければどれほどの作品なのかは分からない。
結果、私は超楽しめてしまったのだった。


 
記事前半はネタバレ無し、後半からネタバレ感想
 
実写化にあたって原作者の諫山創氏も協力した大幅な改変が行われていて、それが原因で原作ファンとそうでない人々の評価は大きく分かれてしまっているよう。
原作ファンが改変点に注目して、それを否定的に受け止めてしまう可能性があるのは当然のこと。でも、逆を言えば原作を知らなかったり、そこまで思い入れのない人からすると、限られた上映時間内に収まるように作り変えられた内容のほうが面白かったりもする。私がそうだった。私は漫画版は読んだことはなくてアニメを見ただけなのだけど、今回の実写版で改変された内容のほうが見やすかったし、キャラクターの感情の変化も捉えやすかった。


もともと原作はキャラクターをじっくり描いた後に劇的な状況下で戦死させることで先の読めない展開を作り出していたけど、実写版は前編に関しては本編時間が約95分なので中心となるべきキャラクターはかなり限られてくる。そのため主人公格のエレン、ミカサ、シキシマ(原型はリヴァイ)の3人が中心となり、食いしん坊のサシャ、皮肉屋のジャン、班長のハンジといった我の強いキャラは自力で目立っていたものの、アルミンを含め他の大人しいキャラは完全な脇役となっていた。

そして人間キャラよりも圧倒的に目立っていたのが敵となる巨人たち。残酷描写には容赦がなく、バリボリ食われて人体損壊は当たり前。逃げようとした人々が集まった路地から巨人が数名を掴むと上からボトボトと血と肉片が降り注ぎ、避難所の屋根が破壊されると窓から血まみれの腕が何本も伸ばされ助けを求めてくる。ゾンビ映画というより、完全なモンスターパニック映画だ。
監督の樋口真嗣氏は怪獣映画を作るために生まれてきたような人だけど、そういった意味ではこの巨人による大虐殺&大破壊は現在の日本特撮界での一つの頂点に他ならないし、海外と比較してそれが低い位置にあったとしても、それこそ超大型巨人に立ち向かうエレンのごとく踏ん張りどころとしてやるべきことはやりきったと思う。ゆえに私は次に樋口氏が監督する「ゴジラ」に多大な期待を抱けるようになった。


ただ、これは私が巨大生物によって大虐殺&大破壊が行われる映画を待望していたから好意的に受け止められたのであって、原作ファンの方々からすると大幅な改変とドラマパートの内容に対して憤りを覚えるのも分かる。これは昨年のギャレス・エドワーズが監督した「ゴジラ」への評判と、内容こそ違えどもベクトルは似ているのではないかと思う。

ギャレス・エドワーズの監督デビュー作は「モンスターズ/地球外生命体」という映画で、エイリアンの生息するメキシコから男女が脱出しようとする内容。低予算だったためエイリアンは終盤の数分間しか登場せず、ほとんどが男女の移動シーンだけで構成されていた。しかし、「作業量的にエイリアンの登場場面は限られる」という制約を利用することで、道路標識の隣にエイリアン出没注意の看板があったり、川を移動しているとエイリアンに襲撃された血まみれの船が廃棄されていたりと、常にエイリアンによる危険性が存在しながらもそれが日常生活の一部となってしまったために人々はあまり危機感を感じられないという不思議な世界観を生み出すことに成功していた。
そして「ゴジラ」でもそれと同じ作り方がされていて、ゴジラや敵怪獣のMUTOによる大虐殺&大破壊よりも人間たちが右往左往する姿のほうが長々と描かれていた。ここでの人間側のドラマパートに関しては核兵器を使えば全て解決すると考える米軍の核信仰を皮肉る目的もあって、米軍兵士たちが滑稽な展開で犠牲になっていったりするので重要なのだけども、やはり前年に「パシフィック・リム」があったことで大怪獣バトルを期待した人々はモヤモヤとした感情を抱く結果となってしまった。

これを今回の「進撃の巨人」で考えてみると、外の世界への脅威を感じながらも壁の中で平穏に生活するドラマパートが中心にあり、そこに突如として巨人が現れるという展開が交互に繰り返されるのが理想だったのだろうし、それはギャレス・エドワーズが作った「ゴジラ」の構成と似ているのではないかと思う。また、そこで大事にされているのは「自分の好きなキャラが、自分の求める人間関係を作る」という要素で、その改変や省略は必然的に減点対象となってしまうだろう。
けれど、樋口監督は徹底して巨人の残酷性と絶望感を優先して、ストーリーを牽引するキャラクター以外は排除する勢いで省略を行った。これは「主人公」と「主役」の違いで、ストーリーを牽引するのは「主人公」であっても、劇中で活躍し最も印象に残るようにされているのが「主役」。ゴジラで言えば、研究者や政府関係者が主人公でも、主役はゴジラであり敵怪獣ということ。だから、樋口監督が作った「進撃の巨人」は首尾一貫して“怪獣映画”であり続けようとしたのに対し、ギャレス監督の作った「ゴジラ」は“怪獣の生態系に組み込まれてしまった人類の顛末”という内容で、それぞれのファンが求めていたものをそれぞれが真逆の方針で進んでしまった印象がある。

以上のことがすべてではないにせよ、この実写版「進撃の巨人」に対する評価は賛否両論を超えて肯定か否定かの両極端な物になっていると思う。
それらを隔てている基準は減点方式と加点方式ではないだろうか。原作ファンは“どれだけ原作に忠実であり、私の愛する「進撃の巨人」を壊していないか”という観点から気に入らない要素が出現するたびにをどんどん減点していき、結果的に0点を超えてマイナスに振り切ってしまう。逆に原作を知らない/思い入れのない人たちは“マンガやアニメの実写化はクソ”という観点から0点でスタートし、良い部分を発見するたびに加点していくことで「意外と面白かった」という感想に至るのだと私は考えている。
私もアメコミ映画の「キックアス」は原作コミックのほうが圧倒的に好きなので、実写映画の改変を今でも認めていないけど、それも減点方式と加点方式で評価は大きく変わるし、加点方式ではアメコミ映画の入門にはちょうどいいという結論になっている。
嫌いな作品も加点方式で観直してみると、案外評価が変わるかもしれませんよ。



以下、ネタバレ感想



実写版の一番大きな改変点はエレンとミカサの関係性。
原作でのエレンは母親が巨人に食われることで激しい怒りを抱くけど、実写版はそのエピソードを丸ごと削除し、「壁の中に閉じ込められている」という現在の自分が置かれている状況への漠然とした怒りから、その原因となっている巨人に対してやはり漠然とした怒りを抱く。やがて超大型巨人によって巨人たちが壁の中へ侵入し、混乱の中でミカサが行方不明となる。2年後、兵士となったエレンは同じく兵士となっていたミカサと再会するも、彼女はあの時に助けようとした赤ん坊を目の前で巨人に食われ、自身も大きな傷跡が残るほどの大怪我をし、さらに上官のシキシマと恋仲になっていた。

これだけで原作ファンは拒絶するだろうけど、その漠然とした怒りを言葉や態度で示してしまうエレンの幼さと、実際に巨人の襲撃によって心身ともに多大なダメージを負うことで抱いたミカサの明確な怒りの対比は分かりやすかった。
「俺は怒ってます」と宣言したところでエレン自身に何か特別な力や知識や権力があるわけでもなく、次から次へと新たに現れる自分が望まない状況にその漠然とした怒りは積み重なっていき、やがて絶叫という形で爆発する。情けない。しかし、仲間が犠牲となっていく戦いの中でその情けなさを認め、忌み嫌っていたシキシマの助言によって初めて立体機動装置を駆使して巨人を倒す展開は爽快感があったし、仲間を殺した巨人への憎悪と何も出来なかった自分自身への怒りによって巨人化した際の咆哮は最高のカタルシスを感じられた。

その巨人エレンと巨人軍団の戦いは樋口監督が「何も分かっちゃいない」と酷評していた「パシフィック・リム」を意識した重量感のある戦いになるのではと予想していたけど、巨人の体内から巨人エレンが登場する瞬間はサナギマンがイナズマンに変身する爆発四散で、青緑のエフェクトも相まって平成ウルトラマンが最強形態にフォームチェンジしたのだと直感的に理解した。なので実際に巨人と戦う姿はウルトラマンにしか見えなくなったし、私の中では八つ裂き光輪を使わなくとも殴った衝撃だけで首がもげるほどの凄まじい打撃で怪獣を撲殺する“超破壊暴力的ウルトラマン”という位置づけになった。
でも、その直後にミカサが「私のせいなの?」と言っていて、ただの下半身パワーの暴走にならないように後編でうまいこと説明してください。


そして一番の疑問点であり、未鑑賞者の間でも“ネタ”として拡散され続けている「戦闘中のおしゃべり」問題。
巨人は音に敏感なので可能な限り声を出すなと事前に指示されていたにも関わらず、兵士たちは話し続け、挙句にエレンは先述の漠然とした怒りの積み重ねに追い詰められて絶叫してしまい、その直後に巨人の襲撃を受ける。脚本からして破綻しているのではと思ってしまうけど、その状況に至る理由は劇中にあったと私は考えている。

エレンたち新人兵士の教官となったのはハンジだったけども、壁外遠征を行う際の出陣式で彼女は立体機動装置のデモンストレーションに失敗している。巨人と戦う兵士にとって立体機動装置を手足の延長として使いこなすことは死活問題であり、失敗することは絶対にあってはならない。その後も実際の戦闘中にハンジが立体機動装置を駆使して巨人と真っ向勝負する場面はほとんど無く、ただ部下に指示を出し続けるだけだった。
ここから推測すると、ハンジは実力や技術を認められて教官や班長に任命されたのではなく、本来ならその役職に付くべきだった上官や熟練者が全員戦死してしまったために繰り上がりで担当しているだけなのではないかと思えてしまう。巨人を発見した時のテンション高さから巨人研究をライフワークとしている設定は原作と共通しているものの、兵士としての立場はかなり異なっているのではないだろうか。ゆえに、その指導を受けたエレンたち新人兵士は巨人の弱点と立体機動装置の使用方法を教えられただけで戦地に送り出され、軍隊としての規律は曖昧なまま本人の感覚としては部活動のバス移動のような、そんな緩さの中にあったから巨人の生息域でも声を出して話し続け、上官の指示を受け取らずに建物の捜索を行うなど好き放題に行動してしまったのだとすると合点が行く。それだけ軍隊として疲弊しているということだし、想像以上に絶望的な状況なのかもしれない。

でも、これらのことが事実だったとしてもエレンの絶叫は軽率すぎるし、ヒアナ(人妻?未亡人?シングルマザー?)の誘惑も色々と…。子供のためとはいえ青年の色欲を利用して戦力を確保しようとする展開は気持ち悪いし、しかも軍隊の遠征地での出来事。なぜ今そこで行わなければいけないんだ。壁内のほうが簡単だろうに。
しかも、広い廃ビルなのになぜか目の前で別の男女がセックスを始めてしまい、ホラー映画での基本ルール「リア充は死ね」に則ってその現場を巨人が襲撃するというね。ヒアナは真っ先に食われてしまうし、何のメタファーとして登場させられたのか…。



来月公開の後編では前編に仕込まれた伏線がどんどん回収され、映画オリジナルの展開で巨人の謎などにも決着をつけていくと言われている。前編のエンドクレジットで上映された後編の予告では鎧の巨人と思われる巨人も映っていたので、巨人エレンとの撲殺合戦にも期待したい。
また原作ファンが激昂する内容になるのか、それとも別物と割り切れるだけの振り幅があって一つの可能性として納得してもらえるのか、前編を楽しめた側の者として遠くから見守っていたい。
 
【2015/08/05 17:49】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<Yahoo! BBのレンタルモデムがぶっ壊れて交換したら不具合があって再交換となった話 | ホーム | 顔が可愛くておっぱいが大きいだけじゃ許されないことだって世の中にはあるんだよ! 「ターミネーター:ジェニシス」>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://otakuismfire.blog67.fc2.com/tb.php/1011-fbe06f57
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。