スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 | スポンサー広告 | page top↑
個人の善意の集積は国家の支配を超えるのか 「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」
「キャプテン・アメリカ」シリーズ第3作にして、マーベル・シネマティック・ユニバース:フェーズ3の最初の作品となる「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」を29日に初日初回で見てきた。
連休初日ということもあって、朝9時前の上映回でも400人規模の巨大なIMAXシアターの半分以上が埋まる盛況具合にちょっと嬉しくなった。




以下、感想

(明示こそしていないものの、それとなくネタバレしている部分もあるので未鑑賞の人は注意。
書いた本人が読み直すと、性善説に基いて書かれている印象)
 
 
これまではアベンジャーズの数々の戦いにより世界は守られてきたものの、それによる被害もまた大きく、世論は反アベンジャーズの流れに移りつつあった。そこで、アベンジャーズを国連管理下に置くことで責任問題を明確化し、活動を制御しようとする協定が発案される。
これに対し、アイアンマン/トニー・スタークは推進派となるも、キャプテン・アメリカ/スティーブ・ロジャースは1つの組織に管理されることの危険性を訴えて反対派となり、2人の関係に距離が生まれていく。

というのが今回のストーリー。
超人登録法によりアメリカ政府が超人たちを個人として個別に管理しようとした原作コミックの展開と比べ、かなり世界情勢や安全保障としての要素が強調されている。


アベンジャーズを国連管理下に置こうとする協定は“ソコヴィア協定”という名の通り、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」でアベンジャーズとウルトロンの戦いによって壊滅的被害を受けたソコヴィアの悲劇に起因している。そのため、ウルトロンの開発者として深い自責の念に駆られているトニーが真っ先に推進派としての立場を表明することは必然だった。

対してスティーブのほうは、第2次大戦の体験者として、国家規模の組織であっても時代や状況によってその思想や理由は簡単に変化することを知っており、自分たちの望まない戦いへ加担させられる可能性を危惧して反対する態度を見せた。特に前作「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」で、世界最高の防衛組織だったS.H.I.E.L.D.が“思想面でヒドラに侵食されていた”という事実が、その考えを強める結果になったのだと思う。


スティーブとトニーを分けたのは、アベンジャーズの活動動機を「第3者からの指示」とするか「個人の善意」とするかという部分。
国連に管理されれば責任問題は明確化し、世界各国から現在よりも高いサポートを受けられる可能性もあるが、代わりに影で進行する陰謀が発覚しても即座に行動できないという束縛がある。
逆にアベンジャーズのメンバー各々の善意に従った行動であれば、時間や場所を無視して陰謀や悪党との戦いに注力できるが、それがこれまでの戦果と被害を生み出すとともに信頼の急激な低下を招いたのも事実。すでにアベンジャーズは信頼されていない以上、その善意もまた否定的に捉えられても仕方がない。

思い返せばアベンジャーズの面々は時代も場所も理由も違う状況で超人的な力を手入れながら、最後には自身の内なる善意に従って戦いに赴くことを選んだ。それらの“個人の善意の集積”がアベンジャーズそのものと言える。
しかし、スティーブのそれは「犠牲は必然である」という価値観を内包させることで成り立っている。これが最前線で戦うことを自ら決意した戦士が受ける被害を意味するならまだしも、善意を理由に力の行使を求めながら被害を最小限に止める努力はしてもそれ以上のことは我々にはどうしようもないという諦観から発進した消去法による判断だとしたら、途端にその言葉は真理ではなく彼のエゴにも思えてくる。

そして事態は急展開。新たに発生した爆破テロの犯人として、ウィンター・ソルジャーことスティーブの親友であるバッキー・バーンズが指名手配されてしまう。
即座にスティーブはバッキーが犯人ではないと擁護し、彼の身柄の保護を目的とした行動を始めるが、あまりに私情を挟んだ判断によって他メンバーとの距離はより遠のいてしまうことになる。
つまり、国家規模の組織であっても時代や状況によってその思想や理由は簡単に変化することを危惧していたはずのスティーブが、アベンジャーズのリーダーであるキャプテン・アメリカとしてそれを自分で証明してしまう結果となってしまった。


一方で、アイアンマンであるトニー・スタークは疲れ切っていた。
トニーは協定ありきでの言動を貫いたけれど、そこでの妥協点とは、最初はアベンジャーズ存続のための最善策として協定を利用し、可能な限り自分たちに有利な内容を勝ち取る代わりに、それ以外の部分では大人しく従おうというものだった。しかしスティーブが断固として反対すると、今度は「スティーブが納得できればそれでいい」というような、とにかく協定の締結を最優先する方向へ移り、最終的にアベンジャーズは分裂することになる。

協定に関してはトニーだけではなくアベンジャーズのメンバーの半数もそれに賛同しているが、協定成立後のアベンジャーズのあり方について言及されることは少ない。現状維持を訴えるスティーブに対して、トニーは協定によりすべては丸く収まるという態度で接していくが、まったく余裕が感じられず、何かから逃避するような切迫感も見受けられる。
ソコヴィアに対する責任と自責からトニーが協定の締結を推進するのは当然だけれども、実のところトニー自身がそれらから解放されるための手段として協定に依存している部分があり、スティーブが反対派としての態度を見せるごとに、それは強くなっていったのではないだろうか。
責任と自責からの解放といっても、トニーが無責任な人間ではないことはアイアンマンの第1作ですでに描かれており、それでも耐え切れないほどの重圧が生まれていることは明らか。それほどまでに追い詰められ、押しつぶされないためには、とにかく協定によって責任問題を明確化し、社会的立場と形のある贖罪の機会を得なければならないという状態だったのだろう。

では、なぜトニーはそこまでの責任と自責をひとりで抱え込むことになってしまったのか。
それはトニーが本心を語れる人間が近くに残らなかったからだと思う。アベンジャーズ分裂後もトニーを支持してくれる仲間はいたが、本心を語ることが出来たのはおそらく元S.H.I.E.L.D.長官のニック・フューリー、最愛の女性ペッパー、そしてキャプテン・アメリカであるスティーブの3人だけだろう。ウォーマシンである親友のローディもトニーを支持したが、“トニーを導いてくれる”という面では先の3人の方が意味合いは深い。スティーブとの決別後も、フューリーならアイアンマンとして、ペッパーならトニー・スタークとして世界や未来のために何をすべきかを諭し、和解に向けてトニーももっと大胆な判断と行動に移れたのではないだろうか。
しかし、今回はその3人ともがトニーのもとを去り、計り知れない重圧をひとりで耐えなければならなくなってしまった。


私はこの映画のテーマは「エージェント・オブ・シールド」でコールソンの言った“たとえ賢明ではなくとも、正しくありたい”という言葉に尽きると思う。
世界の意に反してもキャプテン・アメリカとして悪と戦おうとしたスティーブ。
活動を制限されようともアイアンマンとして世界の意に沿おうとしたトニー。
この物語の哀しみは「どちらが正しいのか」ではなく「どちらも間違ってはいなかった」がゆえに、報いも救いも無く、ただ戦いだけが残されてしまったこと。
そして世界情勢や思想や社会的正義を巡る対立の最後の戦いが私情のみによって行われたことで、状況の変化によって思想も理由も変化してしまうのは、一般人も国家規模の組織も超人であっても変わりなく、結局のところ戦争は正義以外の理由で争われるということの証明になってしまった。


これほど重苦しい内容でありながらユーモアはけっして忘れられず、ウィンター・ソルジャーとファルコンのやり取りにさえ笑ってしまう掛け合いが用意されている。

特にトム・ホランド演じる新生スパイダーマンは歴代最高の完成度と言っても過言ではないほどに魅力的。
トム・ホランドは撮影時にはまだ10代の本物のティーンエイジャーであり、そこにサム・ライミ版で主演だったトビー・マグワイアの野暮ったい七三分けの髪型と、アメイジング版で主演だったアンドリュー・ガーフィールドのマシンガントークが加わるいいとこ取り。
アベンジャーズ同士の戦いが始まるというのに「みなさん、はじめまして」と挨拶していまい、アイアンマンに注意されるも「あ、キャプテンこんにちは」とやっぱり挨拶してしまうという経験不足が笑いを誘う。
また、“大人の集団に混じった子供”という人物像が強調されていて、それがトニーとの擬似的な親子関係とドラマを生み出し、前述のようにひとりで苦しむ彼の心に施しを与える役目もある。

キャプテン・アメリカ側で参戦するアントマンもギャグにアクションにと大活躍。
参戦理由は一番希薄ではあるものの、運動会で大ハッスルして翌日は筋肉痛で動けなくなるお父さんのような異様なテンションで縦横無尽に駆け回ってくれる。


そして完全新規キャラとなるブラックパンサー。
2018年に単独映画が公開予定で今回はスパイダーマンと同じく顔見せ程度の役割かと思いきや、実はストーリーにもテーマにも深く関わってくる。
その名の通り黒豹を擬人化したような柔軟性と俊敏性を兼ね備え、中盤では「ウィンター・ソルジャーを追跡するブラックパンサーを追跡するキャプテン・アメリカ」という車よりも速く走る超人たちの全力疾走バトルが展開され、この一連のアクションシーンだけでも劇場で観る価値がある。

ちなみに、このウィンター・ソルジャーvsブラックパンサーの映像は短縮版が公式配信されている。
本編ではこの3倍以上のボリュームがあるので、「うおおおぉぉぉ!!」となった人は今すぐ劇場へ!!





ブラックパンサーはアイアンマン側に加勢し、ある事情からウィンター・ソルジャーを執拗に追跡するも、終盤にはその人間性を象徴する場面が取り入れられている。それはキャプテン・アメリカとアイアンマンが私情によって戦う場面と同時に発生し、ブラックパンサーは私情を捨て、人としての普遍的な社会的正義を選択する。この決断が本来の目的を見失い私情によって塗りつぶされたキャプテン・アメリカとアイアンマンの戦いへの強烈な対比となり、物語にわずかながらの救いを与えてくれる。


前作「ウィンター・ソルジャー」はバッキーだけではなく、登場人物のほとんどが後ろめたい過去を引きずる“冬の兵士”だった。
それと同じく今回の「シビル・ウォー」も、それぞれが自身の考える“賢明”と“正しさ”の間で苦しみ葛藤するもので、私はそれも内戦(シビル・ウォー)だったのではないかと思う。

たとえ賢明ではなくとも、正しくありたい。
そのために、これからスティーブとトニーはどのような決断を行うのか。戦いの果てに送られたスティーブからのメッセージにトニーはどう応えるのか。
これからもマーベル・シネマティック・ユニバースから目が離せない。
 
【2016/05/03 17:42】 | 映画感想 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<両手を合わせて拝め!巨大なものはすべて神様だ! 「シン・ゴジラ」 | ホーム | 札幌大決戦>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://otakuismfire.blog67.fc2.com/tb.php/1027-6e0ea6dc
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。